2006.  1. 22.の説教より

「 家と建築士 」
ヘブライ人への手紙 3章1−19節

 前回の続きとなりますが、1節の後半のところで、このヘブライ人への手紙を記した信仰者は、このように語っています。「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」とです。イエス様が語られる言葉に耳を傾けなさいというのではなく、「使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」というのです。それも、「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを」というのです。つまり、わたしたちが、その信仰生活の中で、「イエス様を信じています。」とか、「イエス様こそ救い主です。」とか言っているところのイエス様を考えなさいというわけです。逆に言えば、わたしたちが、その信仰生活の中で、「イエス様を信じています。」とか、「イエス様こそ救い主です。」とか言っていながらも、案外、イエス様のことが少しも分かってはいないのではないかということがあるということなのかもしれません。実際、わたしなども、時々、思うことですが、わたしたちの信仰生活にとってと言いますか、わたしたちの在り方としてと言いますか、ほんとうに大切にしなければならないことはいったい何なのだろうか、ということを考えさせられることがあります。議論をすることは良いことだと思うのですが、時として自分の意見が通りませんと、議論相手のことが許せず分かれて行く、一緒にやろうとはしなくなってしまうことがよくあります。そうしたことを目にしますと、わたしたちの信仰生活として、在り方として、そうした在り方が、そうしたかたちで分かれて行くことがはたして相応しいのだろうか、ということを思わされるわけです。わたしたちの弱さゆえに仕方のないことなのかもしれませんが、たとえ、意見が、考え方が、違っていても、受け入れ合うことができないとしても、一緒にやって行けることこそが望ましいのではないかと、わたしなどは思っているわけです。
 ところで、この「使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」というときの「考えなさい」という言葉の意味合いを見てみますと、本来的には、「考えなさい」と言うよりは、「見なさい」と言う意味合いの言葉だとされています。つまり、「使者であり、大祭司であるイエス様のことをもっとしっかり見なさい。」ということなわけです。確かに、わたしたちは、もっとしっかりとイエス様に目を向けなければ、イエス様を見なければならないのかもしれません。また、そのように、イエス様のことを、もっと見ているならば、目を向けているならば、自分の意見が通らないような時でも、おもしろくないことばかりが続いたとしても、それによってすぐに分かれて行く、一緒にやれなくなるというのではなくて、少しは違った在り方をすることができるようにもなるのではないかと思われるのです。案外、わたしたちにとっては、そんなことは言われるまでもなくわかっている、よく知っているというのがもっとも危ないことなのかもしれません。その意味では、わたしたちにとっても、イエス様のことをもっと見る、イエス様のことにもっと目を向けるということが必要なのかもしれません。特に、もう一緒にやって行くことができないようなときにです。
 また、このイエス様について、「使者であり、大祭司である」イエス様のことをと語られています。「使者」と言えば、言うまでもなく、神様から遣わされたお方としてのイエス様のことが言い表されているということになりますが、それに対して、「大祭司」としてのイエス様と言えば、どこまでもわたしたちの側に立ってくださって、わたしたちのことをどこまでもとりなしてくださるお方としてのイエス様のことが言い表されているということになります。前の章の17節と18節を読んでみますとき、このように語られています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」つまり、わたしたちとどこまでも同じように弱さを負われる方となられ、わたしたちと同じようにさまざまな試練や苦しみにも合われたからこそ、わたしたちのことを、それこそ、わたしたちの弱さを本当にわかってくださる方として、わたしたちのことを神様にとりなしてくださることがおできになるのだというわけです。また、次の4章の最後の節を見てみますとき、このように語られています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」まさに、イエス様は、わたしたちの側に立っていてくださる方だからこそ、わたしたちのことをとりなすことができる方だというわけです。それが、わたしたちのことをとりなしてくださるお方としてのイエス様ということになるわけです。そうしたイエス様のことを、あなたたちはほんとうに見ていますか、というのがこのところで語られいるところの意味合いということになるわけです。
 そして、2節以下ということになりますが、見ていただきますとお気づきになりますように、旧約聖書のモーセとの関わりでイエス様のことが語られています。「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。」「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれる」です。それは、当然と言えば当然のことです。「家」よりも、「家を建てる人」のほうが尊ばれるのは当たり前のことです。作品よりも、作者のほうが上であることは、わかりきったことです。しかし、わたしたちの現実の生活の中ではどうかということを考えてみますと、目に見える「家」のほうが、作品のほうが大事にされるということが、案外、多いのではないでしょうか。多くの物を、それも、より良い物を所有することこそが、わたしたちを豊かにするかのように考える考え方などは、まさに、目に見える「家」のほうを、作品のほうを大事にして、それらを造った作者を大事にしないのと同じではないかと思われるのです。その点において、モーセは、神の家全体に、イスラエルの人たちに対してと言っても良いかもしれませんが、イエス様は、そのモーセ以上に、ご自分を立ててくださった方に、神様に忠実な方でしたので、そのイエス様がモーセ以上の大きな栄光を受けないはずがない、というわけです。つまり、モーセは、ほんとうに大切にすべきものを大切にしていた見本のような人であったけれども、それ以上に、イエス様は、神様に忠実なお方であった、ほんとうに大切にすべきものを大切にしていたお方であったというわけです。その意味では、わたしたちは、もっと、イエス様に目を向けるものでなくてはならないわけです。
 また、そうだからこそ、12節以下となりますが、「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――」と語られていますように、「『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。――わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続け」なさいということになるわけです。つまり、ほんとうに大切にしなければならないことを大切にして行くことができるように、明日とか、いつかというのではなく、今日という一日一日を用いて励まし合いなさいというわけです。どうしても、わたしたちは、この次の機会にとか、また、今度ということを言ってしまうことが多いわけですが、この次の機会にとか、また、今度というのではダメなわけです。今、与えられているこの時を大切にすることがなければ、なんにもならないわけです。当然のことながら、わたしたちが、信仰を持つ者としてあろうとするときにはなおさらなわけです。